昭和48年01月29日 朝の御理解



 御理解 第4節
 「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」

 神からも氏子からも、双方からの恩人と。教組金光大神様の事を、この様に仰っておられるんですね。本当に金光大神が、私共の恩人だとほんとに分からせて頂く。だからために信心をしっかりしなければならんと言う事になる。私共が本当に教組金光大神を、大恩人として頂けれると言う事が、金光様のご信心だというふうに言うてもいいわけです。そこでやはり本当に私共が、心の上にも形の上にも、金光大神のお取次ぎによっておかげを受けなければならん。
 おかげを受けるから、金光大神は天地の親神様の恩人だけではない、私ども恩人と言う事になるのです。どの辺の所まで、共が、金光大神を恩人だと頂ききっておるかと言う事が、焦点になるわけですね。今日のご理解はそこん所を、聞いて頂きたいと思う。今朝御祈念させて頂いておりましたら、よくあの申しますね。鴨がネギ背負ってきたと言う事を言います。それは願ったり叶ったりと言った様な時に申しますよね。鴨がネギ背負ってくる。やはり鴨ちりなら鴨のちりでもする。
 すき焼きでもすると言う。そのネギが必ず必要なんだ。それが鴨がネギを背負ってくるんだとこう言うわけです。私が今日頂きます事はね、それと反対の事を頂く。ネギがあるネギのそばへ、鴨がさっさと集まって来る所を頂いたご心眼に。鴨がネギを背負ってくるんじゃないです。ネギの所に鴨が集まってくると。昨日の御理解の中に、天の配剤ということを、お話しましたね。
 私が豆腐が食べたいなぁち言うたら、ちゃんと豆腐が集まってくる。はぁ漬けアミがこの頃、一つもお供え頂かんし、漬けアミば一遍、食べたいなぁち言うたら、もうちゃんと、漬けアミが集まってきておる。私が玉露をすすっておると、ここに羊羹が一切れあるなぁと言うと誰かが必ず、そこに羊羹を持ってきておる。これなんかは私はネギに鴨が集まってきておる姿だと思うですよね。そういういうなら天の配剤と言うものは、その様に実は出来ているんだ。私共が求めておるものはそこにあるのだ。
 けれどもそれを頂き得ないと言う事。そこん所を、私共は信心によってです。素晴らしい、タイミングが生まれてくる。そういうおかげを頂いて、金光大神のお取次ぎによって信心が分からせてもらえ、そういうおかげが頂けれるようになったら、これは絶対金光大神のおかげでと言う事になるのじゃないでしょうか。金光大神は私共の大恩人であるという事。金光大神のおかげで、この世に極楽の世界を開かせてもらう。
 これをこのまま、あの世にも持って行ける、それも矢張り金光大神のおかげであり、それをまた子孫にも残して置けれると言う事は、愈々金光大神のおかげであると言う事になるでしょう。只ねポツンポツンと、ほんあらおかげを受けたり受けなかったり、只金光大神のおかげと言うものの実感がです。い良い強うなってくる時に、金光大神のお取次ぎのおかげでと、私共がその金光大神の大恩に対してお礼が言えれる様になる。
 神様は絶対、金光大神のおかげで、神が世に出れる様になったと喜んでおられる。そこで私共は金光大神のおかげで、その様なおかげが受けられる。私はその事から思わせて頂いた。ネギと言う事はどう言う様な神意がある事だろうかと思うた。ネギというのは神様へ仕える。神主さんの事を祢宜と申しますよね。だから神様へ仕える。金光様のご信心は、天地の大恩を分からせて貰い、天地の大恩に感謝しながら生活をして行くと言う事が、金光様のご信心であり。
 それを又人にも伝えて、真の信心をさせるのが神へのお礼と言う風に仰っておられますように。結局お道の信心を頂いておる者、是は教師信者を問わず、取分け教師なんかは、その祢宜という表現にぴったりくる訳ですね。神様の奉仕をしておる者です。是は一億取次ぎ者、奉仕者と言う様な事を、金光様の信心を頂いておる者全部が取次ぎ者という精神でなからにゃならんと言う事が言われます。私共はいうなら頂いたおかげを、人へも伝えていくのですから、おかげを取り次いで行かなきゃいけない。
 人に話をしていくと言う事も、人に取り次ぐ事になる。して見ると神への奉仕者と言う事になる訳です、金光様のご信心を頂いたら。だからそういう精神が本当に出来た時、祢宜としての資格と言うか、祢宜として認めてくださる。そこにネギがある限り、鴨は是に着いて来ると言う事です。そこを教祖様は天地書付をもってお示し下さってあるように思うのです。生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にありと。いうならその和賀心という、その和賀心に、おかげはついてくるんだと、こう言う。
 おかげの方が付いて来るんだ。そういうおかげをね頂かなければならん。そこで光大神のねどこを頂くかと。ここには金光大神の言う事に叛かぬ様良く守ってと、仰せられてありますがです。言われ事の核心になる所、中心になる所はどう言う所かいうなら金光大神の、魂の遍歴というか、金光大神が信心を進められて、ご神格が段々高められておいでられたその過程というものを、私共が知らなければいけない。
 一お百姓百姓文治という御時代。お百姓なさっておられる時代の教組のお心の状態。それから心が神様へ向われるようになって、信心いわゆる金神に向かわれる、教祖様のあの信心の御態度。とにかく様々な世の中の難儀を味わわれるのですけれども、その難儀の味わい方。昨日のご理解で言うと、その味のつけ方が素晴らしかった。人間凡夫で相分かりませず。どこにお粗末ご無礼があるやら分からない。と言われる時点ではです。その当時の、例えば金神有効説を信じておられる。
 その時分の人間は、皆んなそれを信じておった。だからあの四十二のご大患の時に、石鎚の神様が、ご親類の次郎と言う方に、神がかりになってその事を伝えられた。所謂家屋移転のことに、金神にひょうび金神に無礼があって、こういう状態になってるんだと。もうその時の事は、皆さんもご承知の様にもう至れり尽くせりの、その方をなさっておられる。この家に母屋のほうへまだ、所謂方角がいけないから、ここへ移ってはいけないと言われるので、わざわざ納屋の方へしばらくお住みなって。
 そしてそれを待って、母屋の方へ移っておられると言った様な、行き届いたあり方をなさっておられるから。そのご兄弟親戚の方達が、特にその教祖様の奥方であります、奥方のお父様。古川八百蔵という方が、私の長女が嫁入ってるとこが、そこの先祖なんです。古川八百蔵さんが仰っておられる。他の者ならいざ知らず、この屋の主人に限っては、そういう金神に無礼などのあるはずのない。
 ちゃんと見て建てたと。こういうふうに仰っておられます。そん時に教祖様はそれこそ、重湯も通らんような大患でおありになった教祖様が、ごそごそご神前に這い出てみえて。心の中に思われること、只今申しました氏子の事、ご無礼なことお許しください。人間凡夫の事でございますから、どこにお粗末ご無礼があるやら分からん。平にお許しをと、請われた時に、その方は行きとどいておる。五月の一日には、験をやると言う様なお知らせを受けておられる。
 例えばこの一事からみてもです、いかに教祖様の神様に対する所の、いわゆる姿勢というものがね、所謂本当にちゃんと見るとこは見た、するとこはしてからこうしとるんだというふうに仰っていない。人間凡夫の事だからどこに過ちが、お粗末ご無礼があるやら分からんとして、お詫びしておられる。それからとても次々と難儀な事が起こってくるたんびにです。承れば金神様というお方は新たかなお方。
 知って向かえば命をとり知らずに向うても目をとると言う程しの、新たかな神様であると言う事で御座いまするが、次々こういう難儀な事が起こってくる。いわば七墓築くほどしのいうなら難儀が襲うてくる、その都度にです。これはまぁだ私の信心が足りないからだという姿勢で進まれた。そして知って向かえば命をとり、目をとるほどしの新たかな神様なら、また目を下さる事も出来なさる。命を下さる事も出来なさる神様に違いはないのだから、お向きを変えて下され、お向きを変えて下されと。
 そういう例えば悪神邪神と言われる様な神様へ向かって、実意の限りを尽くして、是に接近しておられ、愈々。もうほとほと、神様も所謂当時、金神様もねもう感心され抜かれただろう。その間に様々なお試しもあった。そのお試しを良い方へ良い方へと受けていかれる。もうこの方ばかりは試しの仕様がないと言う程しにおかげを受けておられる。そこから、天地金の神様という神様に、向きを変えられた。実際は金神様の姿ではなかった、天地金の神様の一面であった事が分かってきた。
 そこには日柄もなからなければ、方位も方角もないと言う、もうそれこそ自由無碍な世界が、金光大神の信心によって開けてきた訳です。そういう世界に私共が住まわせて頂くと言う事も有難いなら、その金光大神の神様へ向かって進まれた、進まれ方なのです。私共は、そういう心の状態を、自分の心に頂かなければならない。昨日私竹葉会の方達の新年宴会でした。そら御ご馳走が出来とりましたけれども、もう箸ひとつ取れないほどしにきつかった。もう見るだけでも、胸がむかむかするほどです。
 暫くそれこそお付き合いして、すぐ休ませて頂いた。夜のご祈念もご無礼して休んでおった。夜のご祈念のすんだ所に、若い青年の方達が寒修行に、お山に滝の水を頂に行きたいという願いがあっておった、夕べから言っておられる。私が休んでおるところへ、只今から参りますからと言う、そのお届けがあった。私がもうそれこそすぐ飛び起きましてから、神様に修行をそしたら神様からの、「修行」と言う事をもうあんた表現のしようのない程に頂いた。
 そん時私がはっと思うた事はね、はぁこれは私の修行不足に、神様がこの様な修行をさせて下さるんだなぁと思うたんです。もうその瞬間でしたよ胸がスキッとしてから、ちょっとご飯作ってくれと言うて、ご飯頂いたのは。もう何とも頂けなかった、昨日は。そして昨日、当たり前に、ご飯をいただいた。家内がビックリしただろうと思うんです。そこで、私は昨日のね例えば、味のつけ方と言う事。是だけはもう絶対のものなんですから。私共の前に起きてくる、例えば難儀な問題などはですね。
 もうこれは絶対、修行として受けたら間違いがないですね。それはもうどういう人間関係の煩わしい問題であろうがです。五体に感ずる所の難儀であろうがです。一切、難儀とか、困ったと言う事ならば、是は修行。成程教祖様自信がです、一生が修行じゃと仰せられた事が分からせて頂きました。皆さんこの修行という受け方。教祖様はそういう受け方をなさってです、どういうことになられたかと言うと、この方の道は喜びに喜んで開けた道じゃから、喜びでは苦労させんと仰せられた。
 もう喜びに喜んでというのはね、ただ喜んでじゃないんです。喜びに喜んでという生き生きとした勢い是は修行です。修行がなからなければ、生き生きとして受けられない。今日私は皆さんにそこん所を、聞いていただき、分かって頂きたい。はぁ神様が私にこういう修行を求めたまう。そんなら生き生きとしてです、有難い有難いと二つ重ならなければおられないほどしにです。この方の道は有難い有難いで開けた道なんだ。どういう場合であっても、それを修行として受ける時にです。
 その向こうに頂けるのは、修行の喜び信心の喜び。勿論そこにはおかげの喜びというのがあります。私はそういう受け方を本当に、分からせてもらい身につけた時です。私どもは初めて金光大神に恩人として、お礼が申し上げれるという事になるのじゃないでしょうか。神からも氏子からも、双方からの恩人と仰るが。私どもの場合は、どの程度に、教祖様を恩人として頂けておるか。
 もうこの事だけは、教祖様から直伝だ。神様が教祖様が仰った、歩かれた道は私共は辿らせて頂いておる、そこん所を教えて頂いたんだと。そういう私は頂き方が身につかせて頂く時にです。和賀心は自ずと生まれてくるのじゃないでしょうか。それが事実は本当な事なのですから神様が。本当な事が分かってくれてという、お喜びが必ず返ってくるのです。どうしてこんな目に合わなならんじゃろうかじゃなくて、それを修行として受けた時、それが本当なんだから。そこに神愛を感じたわけです。
ですから神様もです、喜んでくださる。そのよろこびがよろこびになって返ってくる。よろこびによろこんで開けた道が、そこから開けてくるわけなんです。そういう信心を身に付けさせて頂いた時です。私は初めて金光大神が大恩人だ。素晴らしい信心の道をしかも私共誰でも、辿られるような道をです、辿って下さってという、金光大神の恩後を、お慕い申し上げる信心が出来てくる。
 本当に金光大神に対する所の憧念心という、その憧念の心も湧いてくる。金光様。先日昨日ここに座らせて頂いておる時に、ある方があの大変難儀な問題で見えて、ここに見えてから「金光様」ち言うて言われるんですよ。そりゃこちらもみんなジンとするほどだった。そしたら神様は掛け声と仰ったですそん時に。金光様というのは私共はきついときに言う掛け声なんです。
 あれは。そういう例えば掛け声をかけながらです、私共がそういう信心に向かわせて頂けれる、言うなら信心を身につけた時、確かに金光大神が恩人だという事になるのです。そこから生まれてくる和賀心。私は鴨がネギ背負ってくるというのじゃなくてです、金光様の信心は、私どもが先ずは祢宜になる事。祢宜になることを目指させて頂いたら、もうネギには鴨がついてくるということ。そしてそこに、天の配剤の素晴らしさということを体験する事が出来ると思うのです。
   どうぞ。